【親の生きざまを否定しない】糖尿病になった母子家庭お母さんへの親孝行【在宅介護】
お母さんは、20代後半から父と離婚をし、子供3人を育ててくれました。
私は真ん中の長女として生まれました。
お母さんは30代半ばに糖尿病の症状である口喝や頻尿に悩まされ、病院を受診してすぐに糖尿病と診断されました。
病気になっても生活習慣を変えることができなかった母の姿
しかし、治療はせず、自由気ままに生活していました。
そんな健康状態ですから、普通の生活は長くは続きませんでした。
お母さんが40代頃になると、完全にお母さんの身体を糖尿病が蝕んでいっているのが、子供ながらわかっていました。
なのに、食べることが好きで、甘いものや辛いものが大好き。
家族で一緒に美味しいものを食べている時が、一番幸せのような人でした。
そんなお母さんを心配して、おばあちゃんは「早く病気を治しなさい」っていつもお母さんを叱っていました。
お母さんとおばあちゃんはいつも口論していて、それをとめるのが私の役割でした。
看護学校卒業を機に、母に寄り添うと決意
私が看護学校を卒業し、総合病院に就職してからお母さんの様態は徐々に悪化していきました。
当時、母は50台後半。
私はその頃から、お母さんに寄り添いながら生活をするようになりました。
病院に連れて行ったり、薬のセットをしたり、お母さんに合った病院を探してみたり。
でも、結果はお母さんのやる気次第だったので、なかなか納得のいく治療とはなりませんでした。
そうですよね。
家に1人で居たら、なんでも好きなもの食べてしまう。
カップラーメン・あげパンは大好物でした。
いつも実家に帰ると、お母さんの生活スタイルに指摘するところが多すぎて、私がしんどくなることばかりでした。
手放したくなる時もありました。
でも、孫を大切にするお母さんの姿や、実家に帰るといつもおいしい味噌汁とお好み焼きを焼いてくれるお母さんに感謝して、ほっとけない自分がいました。
また、看護師としてのプライドもあったのだと思います。
お母さんをもっと生かしたい。
だから、お母さん目線で治療を進めていこうって思っていました。
育児と母の介護の毎日
私は精神看護をするなかで、患者さんと向き合い、寄り添い、考えることを大切にしています。
日々の仕事でも、患者さんの想いに寄り添うことは、もっとも大切であると感じています。
ですから、私のお母さんにもそうしたいという想いは強く、
「亡くなってほしくないけど、できる限り、お母さんの好きなようにさせてあげたい」
気持ちでいっぱいでした。
育児休暇中だった私は、育児をしながらお母さんを介護することにしました。
今思えば、並大抵ではなかったし、よくあんなハードな生活ができたんだと、ぞっとしています。
仕事が休みだったからよかったですし、タイミングもよかったのだと思います。
入退院を繰り返した母の生活
お母さんは、人工透析の治療で2度入院しました。
病院嫌いのお母さんを嫌々入院させて治療するので、もちろん思うようにいきません。
入院中はおやつを食べるし、外に出ようとするし、シャント(人工透析するための動脈部分)は触ろうとするし。
何度も病棟から電話があり、
「連れて帰ってほしい」
と言われ、迎えに行ったり、なだめたりし続けました。
突然倒れた母
しかし、2回目の退院後にお母さんは家で倒れてしまいました。
脳内出血でした。
発見が少し遅かったので寝たきりになってしまいました。
それから、約3か月、ICUと腎臓内科に入院。
その後、リハビリ病院に転院し、功を奏して、その後は施設で半年ほど過ごすことができました。
しかし、その後は誤嚥性肺炎から寝たきりになり、腎臓機能も悪化していきました。
毎日、私は仕事終わりに病院に行って声掛けと歯磨きとマッサージをしました。
お母さんのそばにいてあげることで、自分が許された気持ちにもなっていたからだと思います。
それから、半年ほど寝たきりを通して、他の療養病院に転院を命じられました。
「ここに長くは居させられない」
とのことでした。
なんとか転院先が見つかったものの、転院してわずか2週間ほどで病状が悪化。
尿が出にくくなり、意思疎通が取れなくなりました。
先生からは余命1週間ほどだといわれました。
人生の最後を看取る娘
私は、お母さんが家に帰りたいという想いを聞いていたので、お母さんの気持ちに沿うように連れて帰ることにしたのです。
私もそうしたかったんだと思います。
その人の生きざまを否定せず、全てを肯定して最後を看取る。
その人の思いや生きてきた過程を思い出し、今その人にとって何が幸せなのかを考える。
そう考えました。
- 一緒に居ること
- 住み慣れたところへ帰ること
- 会いたい人に会うこと
- ご飯を食べること
- お風呂に入ること
- 孫や子供と散歩すること
- 好きな人に会うこと
お母さんがしたいことは、在宅看護を通してすべてできたと思います。
お母さんと在宅で約1か月、一緒に生活することができました。
親孝行できたなって場面はいっぱいありました。
毎日が親孝行でした。
家に連れて帰ったころには、お母さんの想いは聞けませんでしたが、1つだけ、母と意思疎通ができたことがありました。
それは私の中での最大の親孝行ができたのかなって思えた時間でした。
おむつ交換
それは、おむつ交換の時間、兄と一緒にお母さんのおむつを交換している時でした。
「お母さん、うんち出てよかったね。おしっこも出てるね。変えとくけんね。お尻赤いけん、洗っとくよ」
と声掛けしながらの親子の時間でした。
そうしたら、その直後にお母さんは言葉を発しました。
「ありがとう」
と言ったのです。
久しぶりの母の声、とても穏やかな表情。
目はつむっているけど、なんだか幸せそうな顔。
お兄ちゃんとびっくりしました。
お母さん聞こえてたんだって。
ちゃんとわかってくれてるんだって。
その時私は、すっごく親孝行できたなって思った瞬間でした。
それから、しっかり手を握ると握り返してくれました。
耳は死の直後まで聞こえています。
いろいろな学びのあった在宅看護を経験できたのも母のおかげ。
そして、母の死をすぐに受け入れられたのも在宅看護をした親子の時間があったからです。
私は今でも母が最後に教えてくれたこと、今までどんな生き方だったとしても、母が私に与えてくれたことを忘れず、患者さんと向き合っています。