『親孝行とは何なのか? 何が親孝行なのか?』と主人に問われたとき、私には明確な答えはなかった。
40を過ぎたというのに、生まれてこのかた、親孝行についてそんなに深く考えたことがないからだ。
しかし、これは私に限ったことではなく『親が元気に生きている人のほとんどが私と同じく親孝行とは何か?と深く考えることはない』し、質問されたところですんなりと回答できる人は極めて少数なのではないだろうか。
私の母は、末っ子である。
世のイメージ通り、基本的に『末っ子は甘えん坊で構ってちゃん』である。
基本に忠実な母も、甘えん坊で構ってちゃんだ。
そんな母が私に望むことは、
『一緒に時間を過ごす』
ことだ。
それもただ一緒に時間を過ごすのではない。
仕事がなく家にいるときは、どこかへご飯を食べに行きたがるし、旅行へも行きたがる。
一緒に何かをすることを強く望むのだ。
娘が自分の為に時間を使うことが母にとって、とても大切なことなのだと思う。
家にいたとしても一緒にご飯を食べるし、話もするのに、なぜ母は外出したがるのだろう。
外出すればお金もかかるし、身体への負担も大きいのに、なぜか母は常にどこかへ行きたがる。
「なんでだろう?」
とずっと思っていたのだが、親孝行というものを考える中で気づいたことがある。
それは、家にいる時と外出する時の私や妹の反応の違いだ。
特に私は、外出した時と家にいる時で母の話への反応がまったく違う。
母のことを真剣に考えながら、自分の行動を振り返ってみることで、私が無意識にやっていたことに気づいた。
家に居るとき、私は母が言うことを話半分で聞いている。
これは今まで無意識にそうしてきたのだが、なぜかと振り返れば、理由は簡単で、
私と母の価値観や考え方が全然違う
からだ。
母と娘といえども、
価値観や考え方が全然違う人同士
が真っ向から話をすればイライラするし否定もしたくなる。
だから、私は母の話を話半分で聞いている。
妹のように、母と同じ感覚でテレビを見て笑ったり、反応したりするのも辛いし、ニュースを見た時の母の少し偏った考えにも共感できないことが多い。
母と私は違う人間で、私にとってそれは当たり前のことなのだが、母はそれが気に入らないみたいだ。
母の
「普通そうでしょ」
「みんなそう思っているよ」
の口癖が私は大嫌いだが、母は頻繁に口にする。
だから私は、母の話を話半分で聞く。
これは、私の考え、私の価値観、私自身を守るための防衛本能だ。
しかし、その防衛本能が、和らぐ瞬間がある。
それは、ご飯を食べに行ったときや旅行に行ったときだ。
美味しい料理を食べたり、旅行に行き、同じ場所、同じ経験をすることにより、連帯感や一体感が生まれる瞬間。
共通の話題が生まれることにより、私は家にいるときより、確実に、母と向かいあって話をしている。
家にいる時より濃密な同じ時間を過ごし、同じ経験をすることによって、とてもわかりやすく母の為に時間を使っているのだということに気づいた。
母に確認をした訳でもないし、母がそんな話をした訳でもないのだけれど、家の中にいて
「なぁなぁ」
な場所で話をするより、外に行ったときの方が、しっかり対話をしているのは間違いないと思う。
きっと母は、
一人の人間として、ちゃんと向き合い、話をしてくれること
を望んでいるのだろう。
もちろん、美味しいものを食べることも、どこかへ行くことも本当に大好きだけど、その自分の大好きなことを、娘たちが自分の為に時間を使って、一緒に行動することで、自分が大事にされている、自分に価値があると感じているのかもしれない。
私にとっての親孝行とは、
『親が望むことを、自分の時間とお金をかけて叶えること』
だが、もっと突き詰めて考えてみれば、
親孝行とは、あれやこれやと考えてめんどくさいなと思いながらも、かと言って、放っておくこともできず、
『親のことを考えること、親に意識を向けること、気にかけること』
その行為そのものが、親孝行になっていくのだと思う。
親に関わらず、人間は自分のことを気にして気遣ってくれたとき、喜びや嬉しさを感じるのだから。